毎年、元旦に頭に浮かんだ言葉…。

勢いに任せて、筆のおもむくまま、一気に書きあげました。

年頭に念頭を置く

 2016

■自信

他人のことは、その言動の細部に至るまで、詳しく見えてしまう。

 

まるで母親のように、その言葉の端に潜む嘘を見抜く。

まるで教師のように、その表情の裏に隠された詭弁を察する。

まるで親友のように、その振舞い騙されず妬みに気付く。

まるで恋人のように、その笑顔の訳を冷酷に感じ取る。

 

すべては全能の神の如く、お見通しである。

なにしろ60年以上も、他人の顔色と言動を観察し続けていたのだから。

 

しかし、自分はまったく分からない。

 

         ★

 

自信満々で雄弁である時も、寂しさにうずくまっている時も、笑い転げてヘタヘタになっている時も、自分のことは分からない。

自分の行動も、言葉も、容姿も、歩き方も、食べ方も、口癖も、何もわかってはいない。

人に自分のことを言われると、時としてムッとする。

やはり自分が自分を分かっていない瞬間である。

 

自分は、一体、何を考えているんだ。

自分は、一体、何を欲しているんだ。

自分は、一体、何をしているんだ。

自分は、一体、どこにいるんだ。

 

しかし、とうの昔に自分探しという遊戯は終えている。

 

         ★

 

自分が誰か、どこに行きたいのか、何をしたいのか…、そんな遊びは意味をなさないことを知ってしまってから、今を生きることの大切さを知り、追い続けてきたが、ふと振り返ってみると、足跡すら残っていない、今の懐にも何も残っていない、と知った時の虚しさは哀れというどん底にいるようで、自分という価値観を喪失してしまう。

 

成功の方法論は知っている。人に教えているほど、知っている。

 

テーマを言語化し、目標を明確にし、可能な限り数値化し、マイルストーンを決め、日々、チェックしながら、ただそれに向かって生きて行けばいいのである。いつしか、決められたそのゴールとやらに辿り着いているのである。

 

そんなバカげた人生ゲームは歩みたくない。それが本音である。

 

         ★

 

ではどうすんだ。

 

正月元旦だからと言って、カッコイイ答えを出すのは止めよう。

体裁を整えた正解を出すのは止めよう。

 

答えではないが、方向性は出せそうだ。

それは単純過ぎて、中学生にすら笑われそうな方向性である。

「自分を信じろ」である。

青っぽくて、笑ってしまうそうだが、中年になって迷い道に入り込むよりは良い。

 

訳知りの説教臭い老人より、無学で無鉄砲な若者が良い。

今年は、「意味のなく自分を信じろ」でいってみよう。

 

 2015

■「夢は叶う」のウソ

 

よく「夢は真剣に願えば叶う」といいます。

 

100mを13秒台で走っていた中学生が、懸命に努力をして夢である10秒台で走ることは可能でしょう。医師になりたいという夢をもった貧乏な家庭に生まれた高校生が医師になることも可能でしょう。真剣に夢に向き合い、ひたすらに自分を信じ、ポジティブシンキングで生き抜けば、ある程度の夢は叶うでしょう。

 

さて、誰しもが「平和」を望みます。

 

かつて仏陀にしろ、イエスにしろ、孔子にしろ、真剣に「平和」を望んでいました。その膨大な言葉と所業からも、その本気度が伺い知れます。

 

そし教団・宗派が生まれ、その中にも全身全霊をつぎ込んで「戦いのない平和な社会」を願った聖職者がいたはずです。その数は何千、何万、いやもっと飛んでもない数の人たちが「平和」に命をかけました。

 

しかし「戦いのない平和な社会」は実現しているでしょうか?

 

まったく逆行しています。この100年間だけでも、どれほどの戦争が起き、どれほどの人命が失われたのか。そして現在も戦いが止む日はありません。たぶん戦いで命を落とした人は1億人ほどになると思います。

 

どんなに真剣に思考し行動しても、一人では実現できない「夢」はたくさんあるのです。実現できない「夢」の方が圧倒的に多いのです。

 

「夢は叶う」は、まったくのウソなのです。

 

宝くじに当選した人を見て、「夢は叶う」と思うのに似ています。まさに宝くじのように、「夢は叶う」に付け込んで、多くの人々の夢の裏側で巨大なビジネスが動いているのです。

では、どうすればいいのですか?と質問されれば、答えは簡単なのです。

 

「平和」を例にとり挙げれば、それが「当然だ」という感覚を一人一人が持つことです。そして善意のウィルスとして世界に伝染させることです。

 

いま、それができるのは日本人なのです。日本人を「平和ボケ」という子人たちがいますが、これでいいのです。日本人は、戦う準備をしてはいけないのです。日本人は、人を殺す準備をしてはいけないのです。日本人は、他人の戦争に巻き込まれてはいけないのです。

 

戦後、日本は、共産党と国民党の戦い、朝鮮戦争、ベトナム戦争、その他多くの戦いを見てきました。沖縄という土地を米軍に貸していたことは事実ですが、日本人が直接に闘うことをせずに、今日に来ています。

 

ソ連は崩壊し、北朝鮮は弱体化し、中国は資本主義国家になっています。日本は、どことも戦う必要などないのです。ました東ヨーロッパ、中央アジア、西アジアでも紛争に手を貸す必要はまったくないのです。

 

日本人は、善意のウィルスを世界にまき散らしてください。お金はかかりません。インターネットで十分です。もし旅行で相手の国家、地域、民族を訪れたならば、「日本は平和だよ」と言って握手でもすれば、善意のウィルスは伝染します。

 

「子供染みた発言だ」という人もいるでしょう。しかしそう言うあなたは戦争を経験しているのですか? 人を殺したことがあるのですか? 家族を虐殺されたことがあるのですか?

 

そうでなければ、まずは幼稚な私のご提案する方法をお試しいただければと思います。

 

2014

新年。親愛なる自分に告ぐ。


右手の強欲を捨て慈悲を掴み、左手の傲慢を手放し博愛に持ち替え、 


丸めた背と心を伸ばし、胸を大きく張り深く息をし、


下げていた頭を天の元に整え、何もない後を見ず眼は真っ直ぐに正し、


一踏一跡(いっとういっせき)と歩を進め、


他者を信じ軽んじず裏切らず、


自身の感性を磨き知性を広く求め、


愉快なるこの人生を友と謳歌しなさい。

 

2013

論語の中の「簡」

 

2012年31日。論語を読んでいました。すると「簡」という文字が幾つも出てくる一文に出くわしました。

 

仲弓問子桑伯子、子曰、可也簡、仲弓曰、居敬而行簡、以臨其民、不亦可乎、居簡而行簡、無乃大簡乎、子曰、雍之言然。

 

漢字だらけで、何が何だか意味不明…。ただ44文字の中に、簡が5つもあります。これは目立つ。

 

訳文を読むと、ここで言う「簡」という文字は、「鷹揚」「おおらか」という意味だそうです。私は、一瞬喜んだのですが、さらに解説を読んで驚いてしまいました。

 

■良い人物とは?

 

孔子様が優秀だと認めた「仲弓(ちゅうきゅう)」という人物がいます。彼が孔子様に質問をします。

 

仲弓は、世間の評判の良い「子桑伯子(しそうはくし)」という人物について尋ねたのです。その子桑伯子は、隠者として生活をしていたのですが、誰からも好かれ、徳のある人物であったようです。

 

孔子様は、子桑伯子について「悪くないな、彼は鷹揚(おうよう)だからね」と言いました。つまり「おおらかな性格の、良い人物である」と。

 

しかし鋭い仲弓は、自身の意見を孔子様に披露します。

「もし彼が物事を慎重に考えた上で、おおらかに人々と接しているのであれば、それは確かに良い人物です。しかし彼が自分に対しておおらかで、いい加減であれば、それは大雑把な人物とは言えませんか?」と。

 

つまり、「子桑伯子は、自分に対して厳しくし、他人に対しておおらかだと言うのであれば良いことですが、自分に対しておおらか(甘い)というのは問題です」と仲弓は言ったのです。

 

それを聞いた孔子様は、「そのとおりだ」 とおっしゃいました。

 

■結論としては

 

全体を端的に言えば「自分に甘い人間はダメだ!」ということです。

いやはや孔子様、恐れ入りました。

 

2012

生で始まり、死で終わる。

 

3.11大震災は、CGで製作された映画を観ているようでした。9.11も同じ感覚がありました。感覚が麻痺しているのでしょうか。しかしこれは現実です。

 

「命を賭けたデス・ゲーム」「サバイバル・ゲーム」など、小説や映画やボードゲームなどでは良く見かけます。しかし、私たちの人生がまさに、そんなゲームです。「生で始まり、死で終わる」ゲームです。実感があってもなくても、現実のゲームです。

 

では、すでにスタートしたこのゲームで、自分はどの辺にいるのでしょうか?もうすぐ「ゴール」なのか、それとも「夢半ば」「成功せず」でリタイヤなのでしょうか?

 

運良く「ゴール」できたとして、成績と言うスコアがあるのなら、私の成績は「何点」になるのでしょうか?

 

そのスコアを決める基準があるとすれば、それはマネーゲームや人生ゲームのような「資産額」「現金残高」で評価されるのでしょうか?いや、そうではなく「技術点」「芸術点」なのでしょうか?

 

この世と言うゲームを終えて、あの世で、勝ち負けの精算は、どうしているのだろう?こうした疑念を持ちつつ、今も私は人生と言うゲームを続けています。

 

■人生の評価

 

「どれだけの資産を築いたのか?どれだけの栄誉を得たのか?どれだけの評価を得たのか?どれだけの人を愛せたのか?どれだけの人を守れたのか?」と問う人がいます。

 

では「思い、願い、望み、念じ、祈り…」こうしたことは、評価されるのでしょうか?「行動は、結果を生まずとも評価される」のでしょうか?「思考と行動と結果の3点が揃わなくては、人生は評価されない」のでしょうか?

 

マザー・テレサは、使命と出合い、そして使命を全うしたのでしょうか?それとも自らの使命を自らが創造したのでしょうか?もしかすると、そこにこそ評価があるのかもしれません。つまり「人生の価値とは自己使命の創造」である、と。ならば、ソクラテスは、孔子は、お釈迦様は、イエス・キリストは…、彼らは、自己の使命を創造したのでしょうか。

 

今の自分。人生、そんなことを考えているだけでは、私の評価はゼロなのかもしれません。迷いの思考に埋没していて評価があるはずもありません。では何が必要なのでしょう。

 

人は、迷い、悩み、苦悩し、思考することで人となり得ます。しかし一人で思考に浸りすぎると、人の世から乖離してゆきます。

 

自己の向上とは、自己の進化とは、数量で測れるものなのでしょうか。もし数値化できるのであれば、その通信簿を見たいものです。しかし試験の解答用紙の採点は自分でするものではなく、通信簿も他者評価であるからこそ、主観に対して客観というものさしの意味が生まれます。

 

■他者からの評価

 

「どう評価するのか?」という問いは、「どう生きるのか?」という問いに近いように思います。「自分をどう評価するのか」は、すなわち「自分はどう生きるのか」ということです。しかし、動植物にはそんな評価がなく、生きて死にます。むろん人であっても同じです。評価がなくとも、生きて死にます。

 

私は、自分の振る舞いを知りたいのです。私は、自分の言動の中に、自分が何であるのかを知りたいのです。まるで自己愛のように自分に関わり、自己を知りたいのです。

 

しかし自己評価は、ナルシズムでは成り立ちません。それでも自己を知りたいという欲望を満たしたいのであれば、四柱推命、占星術、姓名判断、素質論診断、動物占い、性格診断、人生評価、タロットカードなど、様々な自己診断が可能です。

 

しかし自分への評価は、他者や社会との関わりの中で採点されるのです。他者からの評価は、指標となり、指針となりえます。ならば他者からの評価とは、どのようなものなのでしょうか。

 

■揺れ動く自己評価

 

除夜の鐘が鳴り、時は、元旦を迎えました。

 

時は動いています。止まってはくれません。永遠に思えるものもすべては動いているのです。

 

自分という存在も動いていて、いつのまにか変化をしている。無防備に生活していると、時の動きも、自分の変化もわかりません。悪いところは変わらず、良いところは退化するばかりです。

 

体力、気力、謙遜、冒険心、挑戦、無欲、無心、善意、そして若さ、そうしたところは退化し喪失していくようです。虚栄、名誉、名声、権威、権力、見栄、頑固、意地、嫉妬、そして贅肉、これらは変わらないどころか増しているように感じられます。

 

少し遠いところから自分を見ると自分がよく見えるのかもしれませんが、自分で自分を騙す術は心得たものです。鏡に映し出された真実や、友人からの与えられた助言すら、誤魔化し、言い逃れをする術を自分は知っています。

 

「素直になることは敗北ではなく勝利であり、終着ではなく開始である」ことも知ってはいても、自分は素直になることにためらいます。

 

評価に、定時もなく、定点もなく、揺れ動き、危うい…、そんな自己評価は、錯誤があるばかりか、元々無意味なのです。

 

さて、「答えなき問い」の坩堝にはまることより、ここは達観し「人生への評価なき評価にこそ真実がある」と仮説でも立てましょう。

 

■評価なき評価

 

大震災、原発事故。それは天災であり、人災でした。

 

時に、人は人を評価しなくてはなりません。時に、己は己を評価しなくてはなりません。それが「答えなき問い」であっても、「評価なき評価」であっても…。

 

今、この世に生まれた自分が、どのように思考し、どのように行動し、どのような結果を残すのか。そしてどのように死すのでしょうか。

 

2011

自分探し

 

1954年より2011年に至る、

私の自分探しの旅は、どこまで辿り着いたのでしょうか?

私は自分の何を探し当てたのでしょうか?

 

自分を探すほどに、自分が分からなくなってしまうこともあって、

でもそれが正解かもしれません。

自分を理解したと思っているときに、自分を見失っていることもあるようですから。

 

まぁ、心配はいりません。自分を理解していようが、そうでなくても…。

他人は、私のことを良く知っていて、その評価がとても正しかったりします。

私は私の背中を見ることができないように。

 

自分探しは、他人探しかもしれません。

自分の内なる声を聞くのも素晴らしく神聖ともいえる行為ですが、

他人の声を聞くこととは、謙虚さと素直さがなければできないこと。

 

ほとんどが面倒で、厄介で、時に薄っぺらい自尊心が傷つく、他人の声。

知人という他人に尊大に接し、友人という他人にわがままに甘える。

そんな生き方に、まっとうな答えは見つかりそうにはありません。

 

振り返れば、そんな生き方しかしてこなかったようです。

まだまだ自分探しの旅は終わりそうにもありません。

また1年間、ご勘弁いただき、お付き合いしてください。

 


日本の皆様に、メッセージをお届けいたします。ちょっと過激です。

その1です。

 

■欠点探し

 

多くの日本人は自分の欠点を探し出すのが得意です。

そして日本人は他人の欠点を探し出すのも得意です。

いつしか日本人の周りは自分と他人の欠点だらけ。

 

一度、欠点が目につくと、それが小さなことでも日本人はやたらと騒がしくなります。

「それはマズイことだ」「それは直さなくちゃ」と焦る日本人たち。

いつしか日本人の周りは矯正や改善がブームになります。

 

そしてある日本人は、顕微鏡を持ち出したりします。

またある日本人は、分厚い六法全集を持ち出します。

さらにある日本人は、会議を招集します。

 

眉間にしわを寄せた日本人たちは、肩を寄せ合い、

議論好きな日本人は時間を費やし議論を重ね、

欠点を探し続けるだけが生きがいのような日本人。

 

日本人が嫌いだと言いつつ真似して成長した韓国人。

日本人が好きだと言いつつ踏み台にし中国化する台湾人。

日本人を横目に、あっさりと追い抜いて行った中国人。

 

日本人は好きなだけ、自分と他人の欠点を探し続けなさい。

日本人は、足元だけを見て、頑固なまま立ち止まっていなさい。

なにしろ今の日本人は、そこが欠点なのだから。

 


その2です。

 

■夢探し

 

日本のどこに夢はあるのでしょうか。

なかなか見つかりませんね。

そもそも夢は見つけるものなのでしょうか?

 

日本では「夢を見る」といいます。日本人は夢想家ということ?

中国では「夢はつくる(做る)」といいます。中国人は努力家ということ?

アメリカでは「夢が来る(叶う)」といいます。アメリカ人は楽天家ということ?

 

いま夢を想像しない日本人、

とても夢を実現させられない日本人、

まったく夢に挑戦しない日本人。

 

夢探しのガイドブックはあるかって?

夢探しのマニュアルはあるかって?

夢探しのカタログはあるかって?

夢探しのコンテンツはあるかって?

夢探しのカリキュラムはあるかって?

夢探しのロードマップはあるかって?

夢探しのカルチャーセンターはあるかって?

夢探しのタイムテーブルはあるかって?

夢探しのマイルストーンはあるかって?

夢探しのアプリはあるかって?

夢探しの…、

そんなものあるわけないよ。

 

ほんの少しの想像力と好奇心と冒険心があればいいのだけど、

いまの日本にあるのは、狭小で臆病な萎えた心を持った、

手取り足取りでなくちゃ、歩めない日本人という子供たちばかり。

 

「バカにしないでください!」「そんなことはないですよ!」

そんな反論の声、威勢良い声は小さく遠いよう。

 

もっと叫んでください。もっと騒いでください。日本人の夢について。