毎年、元旦に頭に浮かんだ言葉…。

勢いに任せて、筆のおもむくまま、一気に書きあげました。

年頭に念頭を置く

2024

 

人生は、生き残りをかけたサバイバルなのであろうか?

人生は、持久戦レースなのだろうか?

 

もしそうなら私は少なくとも敗者ではない。

今年70歳を迎え生き残っているからだ。

 

時には体調を崩すことはあっても重篤なことは無い。

飯や酒の量は減っても美味しくいただける。

 

  ★

 

だが何も成し得ていない。

振り向けば膨大な挑戦の残骸だけだ。

 

左右を見ると、私と人生を戦ってきた者たち姿を消している。

前にも後ろにも、ともに走ってきた者たちはいなくなっている。

 

走ることも、歩むことさえ、止めてしまった者たち。

私の周りに、かつての若者はいない。

 

  ★

 

ゴールはないが、足跡は残したいという欲がある。

私は、欲と道連れの孤独なランナーということか。

 

正直に言えば、私は人間不信というより親友不信である。

そして親友不在になっている。

 

親友不信、親友不在、共に原因は己にある。

 

今年こそ、私は独りで思考し、独りで行動し、独りで責任を取ると誓う。

 

2023

神になろう

 

神になろう。

みんな、神になろう。

難しくなんかないさ。

 

仏陀になろう。

みんな、仏陀になろう。

できないことはないさ。

 

孔子になろう。

みんな、孔子になろう。

やってみようよ。

 

天国を見よう。

この世で、天国を見よう。

そこにあるだろう。

 

自分を知ろう!

みんな、自分を知ろう!

キミは全知全能だよ。

 

善を信じよう。

みんな、善を信じよう。

ただ信じるだけだよ。

 

悲しいさ。

みんな、悲しいさ。

すごく良くわかる。

 

悪を許そう。

みんな、悪を許そう。

ただ許すだけだよ。

 

怒らないでよ。

みんな、怒らないでよ。

ムキにならないこと。

 

怖いって?
みんな、怖いよ!

でもきっとできるさ。

 

自分を信じよう!

みんな、自分を信じよう!

キミは完全無欠だよ。

 

神になろう。

みんな、神になろう。

難しくなんかないさ。

 

仏陀になろう。

みんな、仏陀になろう。

できないことはないさ。

 

孔子になろう。

みんな、孔子になろう。

やってみようよ。

 

2022

善と悪

 

時に「性善説」と「性悪説」という対比がされます。これをテーマにディベートするととても面白いです。

「人は生まれながらにして善である」と「人は生まれながらにして悪である」との対比です。

まぁ、オギャーと生まれてきた赤ちゃんに対して「悪人」と誰も言えないでしょう。しかしその赤ちゃんが生きていく上で、食物として他の命を奪うことがなければ生きてはいけません。

つまり赤ちゃんの魂は善であっても、生きる動物としては悪なのかもしれません。つまり善と悪の双方を内在して、赤ちゃんはこの世に生まれたとも言えそうです。

 

北と南

 

丸い地球を、北半球と南半球と区別しています。私たちは北半球に暮らしていますが、南半球に移動すると、それまでの常識が通じなくなります。

北と南では、季節が真逆となります。渦巻きの向きが逆になります。太陽の軌道が異なります。そして夜空の天空に輝く星たちが異なるのです。

 

正と誤

 

正しいと信じていること、正しいと認められること、つまり私たちが生きている世界での「真実」は「真実でなくなる」こともあれば、「常識」は「非常識になる」こともあります。その不確定こそが「真実であり常識である」と言えます。

 

生と死

 

「生きている者」と「死んだ者」とは、その存在において明確に異なります。まったく別なモノです。

ここ数年で、多くの友人や知人が亡くなりました。その命が失われた瞬間に、その人はただのモノになります。

私はこの世で亡くなった友人・知人、そして家族のことを想うと、胸が詰まります。「なぜなの?」「どうしてなの?」と…。

しかし私はその人たちのことを覚えています。いつでもとても近くに感じ続けています。話し方やクセまでも覚えていますし、笑顔などは忘れようもありません。

また亡くなった私の両親や友人やペットまでもが、夢の中では普通に生きています。私は毎日必ず夢を見ますが、現実世界となんら変わらず、皆が生きています。

 

無知

 

私たちが、まだまだ理解できていないだけで「善と悪」とは同居しているだけではなく同一なのかもしれません。

また「北と南」「正と誤」なんて無いのかもしれません。私たちの勝手な思い込みかもしれません。

そして「生と死」などと分けることはただ私たちが無知なのかもしれません。

自分を疑う

私は、現実世界の「真実」「常識」を疑うことにしています。それは他者に対して評論家、批評家になることではありません。

他者を疑うのではなく、自分を疑うのです。自分自身が身に付けた既成概念や固定概念を疑うのです。

それはまるで苔であり、錆であり、垢であり、落とせるのであれば早く身から取り除きたいものです。

南国のリゾート地で、鎧を付けているような、そんな無用の長物は脱ぎ捨てた方が良いのです。

今年、私はどれだけ素直に自分を疑い、不要な自分の概念を捨て去れるのか?さぁ、始めましょうか。

 

2021

 

 神様の話

 

世界は神様だらけです。

一神教の神様も多くいらっしゃいます。

まして多神教ともなれば、どんなモノもどんなヒトも、神様に奉られます。

 

これだけ多くの神様がいらしても、

神様はそうは簡単に人助けをしません。

多くの神様は人々に生きる指針を示されるだけです。

 

後は「ご自身で頑張って生きてください」とのことです。

ただそれだけです。

ちょっとお冷たいのでは、と思います。

 

さて神様の中に死神様もいます。

しかし死神様は、そんなに多くはいません。

そして死神様はしっかりと働きます。

 

死神様は生真面目です。

毎日毎日、確実に仕事をこなします。

素晴らしい仕事ぶりです。

 

私達は、何かにつけ神様に頼りますが、

実際には死神様に振り回されます。

それが2020年でした。

 

ふと冷静に考えれば、

神様も死神様も、自然の摂理の中にあります。

つまり自然そのものが神様であり死神様なのではないでしょうか?

 

私達は、自分の損得、自分の都合で、自然の摂理を捻じ曲げようとします。

その都度、私達は、一喜一憂するのです。

その愚かさに、神様は落胆し、死神様は微笑むのです。

 

2021年。私達は、

自然の摂理を味方にし、一喜一憂せず、

死神様を落胆させ、神様が微笑むようにしませんか。

 

2020

 

人生

 

何かに没頭していて、あっと言う間に人生が終わってしまう。

それこそ最高の人生かもしれません。

 

暴走したかと思ったら迷って立ち止まってもがいて苦しんで落ち込んで立ち上がれなくなって途方に暮れてイラついて爆発したり愚痴言って騒いでバカやって、そして迷惑かけて後悔しても…、それでも人生は最高かもしれません。

 

この一年間、私にお付き合いいただいた皆様に陳謝と感謝です。

 

ただこの浮かれた年越しにメールでも電話でも、ましてや顔を突き合わせて、陳謝も感謝も伝えることができない人たちがいます。もう逝っちゃうなんて。あまりにも寂しいですよ。

 

あの人、その人…、もう一度、ちゃんと別れを告げよう。そして年を越そう。つたない陳謝と感謝が伝わればいいのだけれど。

 

2019

 

不義理と不始末。

 

年の暮れ迄に、この一年間の「不義理」と「不始末」に片付けなくてはならない。しかし私はそれができなかった。しかも過去何年にも渡って「不義理」と「不始末」が定期預金のように積まれている。

 

そう感じては恥じる気持ちは、私の中の儒教的人物である。つまり社会的または道徳的価値観から照らして見て、自分を恥じるのである。至らないのは己の責である、と言って。

 

しかし自分の中にある仏教的人物は、別な解釈をしている。人生すべからく因果応報であり、その場その時の損得で推し量ってはならぬ、と言う。

 

さらに自分の中には、道教的人物がいる。人生とはなるようにしかならない。流れに身を任せて、いたずらに慌てふためいてはならない、と言う。

 

どちらにせよ「不義理」と「不始末」に対して、どのような合理的な言い訳をしようとしても、どうしようもない挫折感のような感覚からは逃れられない。

 

                                 ★

 

企業会計的に言い換えれば、今、私が死ねば、マイナス決算で終わってしまう。多くの企業が赤字決算に苦しんでいるが、人生の中間決算で赤字はどうなのだろう。

 

黒字決算を出している大企業が世の中にとって良い企業とは断言できない。また未来への扉を開こうと挑戦しつつも赤字決算を出している中小企業も知っている。しかし私は悪徳ではないが、挑戦者としてはみすぼらしい。

 

日本を含め多くの国家財政は赤字である。現在の借金を将来に持ち越しているだけである。莫大なオリンピック予算と軍事予算と原子力発電予算を計上し、今をやりすごせば良いとの考えである。

 

私はどうだろう。結果として「今をやり過ごせばよい」という生き方をしてはいないだろうか? ここに儒教的な正義もなく、仏教的な真実もなく、道教的な喜びもない。

 

私という存在は、日本国と同じなのであろうか?


2018

 

愚痴をゴミ箱に捨ててしまった。

 

止めておけば良かった。1231日大晦日。ペンキ塗りをしてしまいました。ある店舗。たった一人、寒い室内で、壁に白いペンキを塗ったのです。

 

私は、壁の汚れ、カビなどを拭いて、周りにはペンキが散っても良いようにシートを張りました。そしてペンキを塗る範囲にマスキングテープを張り巡らせます。

 

いよいよペンキ塗り。刷毛を使って丁寧にペンキを塗ります。最初のペンキが乾くと、またペンキを上塗ります。34回ほど上塗りをします。ペンキを塗り重ねるほどに壁は見違えるように白さを輝かせてゆきます。何という充実感だろう。

 

ふと気づくと5時間が経っていました。少しの間、真っ白にキレイになった壁を眺めていました。私自身の一年間の心の汚れがキレイになったかのようです。

 

すると、同時に頭の中の様々なことに変化がありました。あるデータは消去され、あるプログラムはリセットされ、あるシステムが初期化されたようです。

 

除夜の鐘…、困った。

毎年通例の「愚痴」を書くことができません。

お正月元旦に、一年間の個人的な愚痴を書くはずが、何も思い浮かびません。何も書けません。こんな体験は初めてです。心の中は空虚であり、ただ白いだけ。

 

文章家として意地を見せなければ…、何か愚痴を書かなければ…、やばい…。

一行でも愚痴を書くことができるとすれば何だろう?

 

そうだ!こう書こう。

「自分の愚痴をゴミ箱に捨ててしまった!」

2017

 

朽(く)ちいる道

 

多くの先人たちが経験した道を歩いている。

その道は朽ちる道である。

 

人は朽ちてゆく、私はその過程にある。

いまそれがよくわかる。

 

しかし朽ち始めたのはいつのことであり、

そのことに気付いたのはいつだったのか?

 

いま朽ちてゆく魂の、その歩みは遅い。

遅いがゆえに痛みがなく、平静でいられる。

 

浜辺の砂城は、波に城砦のすそ野を徐々に蝕まれ、

塔は一気に崩れ落ちる。

 

その時は悲しいだろうか?虚しいだろうか?

寂しいだろうか?悔しいだろうか?

 

不思議なものだ。人生を前に向かって歩いているが、

いつしか朽ちてゆく道を歩いている。

 

前に歩くことが、つねに前向きとは限らない。

立ち止まり脇道に逸れることの方が、時には前向きである。

 

戻ることもできるが、自分には相応しくない。

振り返ることすら、愚かとしか思えない。

 

道に多くの落し物をしたが、拾いには戻れないのだ。

そもそも落としたものが何かすら忘れた。

 

道に迷いあてどなく彷徨うよりは好運である。

 

ただ前に進むしかない。朽ちいる道であっても。

 

2016

■自信

他人のことは、その言動の細部に至るまで、詳しく見えてしまう。

 

まるで母親のように、その言葉の端に潜む嘘を見抜く。

まるで教師のように、その表情の裏に隠された詭弁を察する。

まるで親友のように、その振舞い騙されず妬みに気付く。

まるで恋人のように、その笑顔の訳を冷酷に感じ取る。

 

すべては全能の神の如く、お見通しである。

なにしろ60年以上も、他人の顔色と言動を観察し続けていたのだから。

 

しかし、自分はまったく分からない。

 

         ★

 

自信満々で雄弁である時も、寂しさにうずくまっている時も、笑い転げてヘタヘタになっている時も、自分のことは分からない。

自分の行動も、言葉も、容姿も、歩き方も、食べ方も、口癖も、何もわかってはいない。

人に自分のことを言われると、時としてムッとする。

やはり自分が自分を分かっていない瞬間である。

 

自分は、一体、何を考えているんだ。

自分は、一体、何を欲しているんだ。

自分は、一体、何をしているんだ。

自分は、一体、どこにいるんだ。

 

しかし、とうの昔に自分探しという遊戯は終えている。

 

         ★

 

自分が誰か、どこに行きたいのか、何をしたいのか…、そんな遊びは意味をなさないことを知ってしまってから、今を生きることの大切さを知り、追い続けてきたが、ふと振り返ってみると、足跡すら残っていない、今の懐にも何も残っていない、と知った時の虚しさは哀れというどん底にいるようで、自分という価値観を喪失してしまう。

 

成功の方法論は知っている。人に教えているほど、知っている。

 

テーマを言語化し、目標を明確にし、可能な限り数値化し、マイルストーンを決め、日々、チェックしながら、ただそれに向かって生きて行けばいいのである。いつしか、決められたそのゴールとやらに辿り着いているのである。

 

そんなバカげた人生ゲームは歩みたくない。それが本音である。

 

         ★

 

ではどうすんだ。

 

正月元旦だからと言って、カッコイイ答えを出すのは止めよう。

体裁を整えた正解を出すのは止めよう。

 

答えではないが、方向性は出せそうだ。

それは単純過ぎて、中学生にすら笑われそうな方向性である。

「自分を信じろ」である。

青っぽくて、笑ってしまうそうだが、中年になって迷い道に入り込むよりは良い。

 

訳知りの説教臭い老人より、無学で無鉄砲な若者が良い。

今年は、「意味のなく自分を信じろ」でいってみよう。

 

2015

■「夢は叶う」のウソ

 

よく「夢は真剣に願えば叶う」といいます。

 

100mを13秒台で走っていた中学生が、懸命に努力をして夢である10秒台で走ることは可能でしょう。医師になりたいという夢をもった貧乏な家庭に生まれた高校生が医師になることも可能でしょう。真剣に夢に向き合い、ひたすらに自分を信じ、ポジティブシンキングで生き抜けば、ある程度の夢は叶うでしょう。

 

さて、誰しもが「平和」を望みます。

 

かつて仏陀にしろ、イエスにしろ、孔子にしろ、真剣に「平和」を望んでいました。その膨大な言葉と所業からも、その本気度が伺い知れます。

 

そし教団・宗派が生まれ、その中にも全身全霊をつぎ込んで「戦いのない平和な社会」を願った聖職者がいたはずです。その数は何千、何万、いやもっと飛んでもない数の人たちが「平和」に命をかけました。

 

しかし「戦いのない平和な社会」は実現しているでしょうか?

 

まったく逆行しています。この100年間だけでも、どれほどの戦争が起き、どれほどの人命が失われたのか。そして現在も戦いが止む日はありません。たぶん戦いで命を落とした人は1億人ほどになると思います。

 

どんなに真剣に思考し行動しても、一人では実現できない「夢」はたくさんあるのです。実現できない「夢」の方が圧倒的に多いのです。

 

「夢は叶う」は、まったくのウソなのです。

 

宝くじに当選した人を見て、「夢は叶う」と思うのに似ています。まさに宝くじのように、「夢は叶う」に付け込んで、多くの人々の夢の裏側で巨大なビジネスが動いているのです。

では、どうすればいいのですか?と質問されれば、答えは簡単なのです。

 

「平和」を例にとり挙げれば、それが「当然だ」という感覚を一人一人が持つことです。そして善意のウィルスとして世界に伝染させることです。

 

いま、それができるのは日本人なのです。日本人を「平和ボケ」という子人たちがいますが、これでいいのです。日本人は、戦う準備をしてはいけないのです。日本人は、人を殺す準備をしてはいけないのです。日本人は、他人の戦争に巻き込まれてはいけないのです。

 

戦後、日本は、共産党と国民党の戦い、朝鮮戦争、ベトナム戦争、その他多くの戦いを見てきました。沖縄という土地を米軍に貸していたことは事実ですが、日本人が直接に闘うことをせずに、今日に来ています。

 

ソ連は崩壊し、北朝鮮は弱体化し、中国は資本主義国家になっています。日本は、どことも戦う必要などないのです。ました東ヨーロッパ、中央アジア、西アジアでも紛争に手を貸す必要はまったくないのです。

 

日本人は、善意のウィルスを世界にまき散らしてください。お金はかかりません。インターネットで十分です。もし旅行で相手の国家、地域、民族を訪れたならば、「日本は平和だよ」と言って握手でもすれば、善意のウィルスは伝染します。

 

「子供染みた発言だ」という人もいるでしょう。しかしそう言うあなたは戦争を経験しているのですか? 人を殺したことがあるのですか? 家族を虐殺されたことがあるのですか?

 

そうでなければ、まずは幼稚な私のご提案する方法をお試しいただければと思います。

 

2014

新年。親愛なる自分に告ぐ。


右手の強欲を捨て慈悲を掴み、左手の傲慢を手放し博愛に持ち替え、 


丸めた背と心を伸ばし、胸を大きく張り深く息をし、


下げていた頭を天の元に整え、何もない後を見ず眼は真っ直ぐに正し、


一踏一跡(いっとういっせき)と歩を進め、


他者を信じ軽んじず裏切らず、


自身の感性を磨き知性を広く求め、


愉快なるこの人生を友と謳歌しなさい。

 

2013

論語の中の「簡」

 

2012年31日。論語を読んでいました。すると「簡」という文字が幾つも出てくる一文に出くわしました。

 

仲弓問子桑伯子、子曰、可也簡、仲弓曰、居敬而行簡、以臨其民、不亦可乎、居簡而行簡、無乃大簡乎、子曰、雍之言然。

 

漢字だらけで、何が何だか意味不明…。ただ44文字の中に、簡が5つもあります。これは目立つ。

 

訳文を読むと、ここで言う「簡」という文字は、「鷹揚」「おおらか」という意味だそうです。私は、一瞬喜んだのですが、さらに解説を読んで驚いてしまいました。

 

■良い人物とは?

 

孔子様が優秀だと認めた「仲弓(ちゅうきゅう)」という人物がいます。彼が孔子様に質問をします。

 

仲弓は、世間の評判の良い「子桑伯子(しそうはくし)」という人物について尋ねたのです。その子桑伯子は、隠者として生活をしていたのですが、誰からも好かれ、徳のある人物であったようです。

 

孔子様は、子桑伯子について「悪くないな、彼は鷹揚(おうよう)だからね」と言いました。つまり「おおらかな性格の、良い人物である」と。

 

しかし鋭い仲弓は、自身の意見を孔子様に披露します。

「もし彼が物事を慎重に考えた上で、おおらかに人々と接しているのであれば、それは確かに良い人物です。しかし彼が自分に対しておおらかで、いい加減であれば、それは大雑把な人物とは言えませんか?」と。

 

つまり、「子桑伯子は、自分に対して厳しくし、他人に対しておおらかだと言うのであれば良いことですが、自分に対しておおらか(甘い)というのは問題です」と仲弓は言ったのです。

 

それを聞いた孔子様は、「そのとおりだ」 とおっしゃいました。

 

■結論としては

 

全体を端的に言えば「自分に甘い人間はダメだ!」ということです。

いやはや孔子様、恐れ入りました。

 

2012

生で始まり、死で終わる。

 

3.11大震災は、CGで製作された映画を観ているようでした。9.11も同じ感覚がありました。感覚が麻痺しているのでしょうか。しかしこれは現実です。

 

「命を賭けたデス・ゲーム」「サバイバル・ゲーム」など、小説や映画やボードゲームなどでは良く見かけます。しかし、私たちの人生がまさに、そんなゲームです。「生で始まり、死で終わる」ゲームです。実感があってもなくても、現実のゲームです。

 

では、すでにスタートしたこのゲームで、自分はどの辺にいるのでしょうか?もうすぐ「ゴール」なのか、それとも「夢半ば」「成功せず」でリタイヤなのでしょうか?

 

運良く「ゴール」できたとして、成績と言うスコアがあるのなら、私の成績は「何点」になるのでしょうか?

 

そのスコアを決める基準があるとすれば、それはマネーゲームや人生ゲームのような「資産額」「現金残高」で評価されるのでしょうか?いや、そうではなく「技術点」「芸術点」なのでしょうか?

 

この世と言うゲームを終えて、あの世で、勝ち負けの精算は、どうしているのだろう?こうした疑念を持ちつつ、今も私は人生と言うゲームを続けています。

 

■人生の評価

 

「どれだけの資産を築いたのか?どれだけの栄誉を得たのか?どれだけの評価を得たのか?どれだけの人を愛せたのか?どれだけの人を守れたのか?」と問う人がいます。

 

では「思い、願い、望み、念じ、祈り…」こうしたことは、評価されるのでしょうか?「行動は、結果を生まずとも評価される」のでしょうか?「思考と行動と結果の3点が揃わなくては、人生は評価されない」のでしょうか?

 

マザー・テレサは、使命と出合い、そして使命を全うしたのでしょうか?それとも自らの使命を自らが創造したのでしょうか?もしかすると、そこにこそ評価があるのかもしれません。つまり「人生の価値とは自己使命の創造」である、と。ならば、ソクラテスは、孔子は、お釈迦様は、イエス・キリストは…、彼らは、自己の使命を創造したのでしょうか。

 

今の自分。人生、そんなことを考えているだけでは、私の評価はゼロなのかもしれません。迷いの思考に埋没していて評価があるはずもありません。では何が必要なのでしょう。

 

人は、迷い、悩み、苦悩し、思考することで人となり得ます。しかし一人で思考に浸りすぎると、人の世から乖離してゆきます。

 

自己の向上とは、自己の進化とは、数量で測れるものなのでしょうか。もし数値化できるのであれば、その通信簿を見たいものです。しかし試験の解答用紙の採点は自分でするものではなく、通信簿も他者評価であるからこそ、主観に対して客観というものさしの意味が生まれます。

 

■他者からの評価

 

「どう評価するのか?」という問いは、「どう生きるのか?」という問いに近いように思います。「自分をどう評価するのか」は、すなわち「自分はどう生きるのか」ということです。しかし、動植物にはそんな評価がなく、生きて死にます。むろん人であっても同じです。評価がなくとも、生きて死にます。

 

私は、自分の振る舞いを知りたいのです。私は、自分の言動の中に、自分が何であるのかを知りたいのです。まるで自己愛のように自分に関わり、自己を知りたいのです。

 

しかし自己評価は、ナルシズムでは成り立ちません。それでも自己を知りたいという欲望を満たしたいのであれば、四柱推命、占星術、姓名判断、素質論診断、動物占い、性格診断、人生評価、タロットカードなど、様々な自己診断が可能です。

 

しかし自分への評価は、他者や社会との関わりの中で採点されるのです。他者からの評価は、指標となり、指針となりえます。ならば他者からの評価とは、どのようなものなのでしょうか。

 

■揺れ動く自己評価

 

除夜の鐘が鳴り、時は、元旦を迎えました。

 

時は動いています。止まってはくれません。永遠に思えるものもすべては動いているのです。

 

自分という存在も動いていて、いつのまにか変化をしている。無防備に生活していると、時の動きも、自分の変化もわかりません。悪いところは変わらず、良いところは退化するばかりです。

 

体力、気力、謙遜、冒険心、挑戦、無欲、無心、善意、そして若さ、そうしたところは退化し喪失していくようです。虚栄、名誉、名声、権威、権力、見栄、頑固、意地、嫉妬、そして贅肉、これらは変わらないどころか増しているように感じられます。

 

少し遠いところから自分を見ると自分がよく見えるのかもしれませんが、自分で自分を騙す術は心得たものです。鏡に映し出された真実や、友人からの与えられた助言すら、誤魔化し、言い逃れをする術を自分は知っています。

 

「素直になることは敗北ではなく勝利であり、終着ではなく開始である」ことも知ってはいても、自分は素直になることにためらいます。

 

評価に、定時もなく、定点もなく、揺れ動き、危うい…、そんな自己評価は、錯誤があるばかりか、元々無意味なのです。

 

さて、「答えなき問い」の坩堝にはまることより、ここは達観し「人生への評価なき評価にこそ真実がある」と仮説でも立てましょう。

 

■評価なき評価

 

大震災、原発事故。それは天災であり、人災でした。

 

時に、人は人を評価しなくてはなりません。時に、己は己を評価しなくてはなりません。それが「答えなき問い」であっても、「評価なき評価」であっても…。

 

今、この世に生まれた自分が、どのように思考し、どのように行動し、どのような結果を残すのか。そしてどのように死すのでしょうか。

 

2011

自分探し

 

1954年より2011年に至る、

私の自分探しの旅は、どこまで辿り着いたのでしょうか?

私は自分の何を探し当てたのでしょうか?

 

自分を探すほどに、自分が分からなくなってしまうこともあって、

でもそれが正解かもしれません。

自分を理解したと思っているときに、自分を見失っていることもあるようですから。

 

まぁ、心配はいりません。自分を理解していようが、そうでなくても…。

他人は、私のことを良く知っていて、その評価がとても正しかったりします。

私は私の背中を見ることができないように。

 

自分探しは、他人探しかもしれません。

自分の内なる声を聞くのも素晴らしく神聖ともいえる行為ですが、

他人の声を聞くこととは、謙虚さと素直さがなければできないこと。

 

ほとんどが面倒で、厄介で、時に薄っぺらい自尊心が傷つく、他人の声。

知人という他人に尊大に接し、友人という他人にわがままに甘える。

そんな生き方に、まっとうな答えは見つかりそうにはありません。

 

振り返れば、そんな生き方しかしてこなかったようです。

まだまだ自分探しの旅は終わりそうにもありません。

また1年間、ご勘弁いただき、お付き合いしてください。

 


日本の皆様に、メッセージをお届けいたします。ちょっと過激です。

その1です。

 

■欠点探し

 

多くの日本人は自分の欠点を探し出すのが得意です。

そして日本人は他人の欠点を探し出すのも得意です。

いつしか日本人の周りは自分と他人の欠点だらけ。

 

一度、欠点が目につくと、それが小さなことでも日本人はやたらと騒がしくなります。

「それはマズイことだ」「それは直さなくちゃ」と焦る日本人たち。

いつしか日本人の周りは矯正や改善がブームになります。

 

そしてある日本人は、顕微鏡を持ち出したりします。

またある日本人は、分厚い六法全集を持ち出します。

さらにある日本人は、会議を招集します。

 

眉間にしわを寄せた日本人たちは、肩を寄せ合い、

議論好きな日本人は時間を費やし議論を重ね、

欠点を探し続けるだけが生きがいのような日本人。

 

日本人が嫌いだと言いつつ真似して成長した韓国人。

日本人が好きだと言いつつ踏み台にし中国化する台湾人。

日本人を横目に、あっさりと追い抜いて行った中国人。

 

日本人は好きなだけ、自分と他人の欠点を探し続けなさい。

日本人は、足元だけを見て、頑固なまま立ち止まっていなさい。

なにしろ今の日本人は、そこが欠点なのだから。

 


その2です。

 

■夢探し

 

日本のどこに夢はあるのでしょうか。

なかなか見つかりませんね。

そもそも夢は見つけるものなのでしょうか?

 

日本では「夢を見る」といいます。日本人は夢想家ということ?

中国では「夢はつくる(做る)」といいます。中国人は努力家ということ?

アメリカでは「夢が来る(叶う)」といいます。アメリカ人は楽天家ということ?

 

いま夢を想像しない日本人、

とても夢を実現させられない日本人、

まったく夢に挑戦しない日本人。

 

夢探しのガイドブックはあるかって?

夢探しのマニュアルはあるかって?

夢探しのカタログはあるかって?

夢探しのコンテンツはあるかって?

夢探しのカリキュラムはあるかって?

夢探しのロードマップはあるかって?

夢探しのカルチャーセンターはあるかって?

夢探しのタイムテーブルはあるかって?

夢探しのマイルストーンはあるかって?

夢探しのアプリはあるかって?

夢探しの…、

そんなものあるわけないよ。

 

ほんの少しの想像力と好奇心と冒険心があればいいのだけど、

いまの日本にあるのは、狭小で臆病な萎えた心を持った、

手取り足取りでなくちゃ、歩めない日本人という子供たちばかり。

 

「バカにしないでください!」「そんなことはないですよ!」

そんな反論の声、威勢良い声は小さく遠いよう。

 

もっと叫んでください。もっと騒いでください。日本人の夢について。